鐵心(克直)は、幼少期に両親を亡くし、様々な体験を通して水墨画にたどり着きました。渡辺崋山系南画の師・榛葉淡南に師事し、南画の伝統技法を学びました。師の他界後は、独学で各種伝統技法を研究し、中でも琳派の技法「たらし込み」で今までにない独自の世界を生み出し、その作風は高い評価を得て、全国に1,000人を超える弟子を抱えました。平成20年に65歳の若さで他界しました。
戦中・戦後の多難な時期を乗り越え、本業(鋳鉄業)の傍ら、南画家・榛葉淡南に師事し、表現者としての基礎を築いた時代。
1942年(昭和17年):7月23日誕生。同年11月に母、2年後に父を亡くす。
1944年(昭和19年):東南海地震により園舎が倒壊。下敷きとなるが一命を取り留める。
1961年(昭和36年):掛川西高等学校卒業。
1964年(昭和39年):掛川の南画家・榛葉淡南に師事。
1967年(昭和42年):国民体育大会にスピードスケート選手として出場。同年、結婚。
1971年(昭和46年):崋山会館(田原市)にて伝統技法を3年間研究。師・淡南死去。
1972年(昭和47年):**「鉄心」**の号で新聞に画が掲載。
独自の画風を確立し、会社員から水墨画家として独立。教育・出版活動を通じて全国に水墨画を広めた時代。
1973年(昭和48年):サロン・デ・ボザール展にて入選。本格的に創作活動を開始。
1974年(昭和49年):第1回鐵心個展開催。以降十数回の個展を重ねる。
1976年(昭和51年):水墨画教室を開講。**「東洋水墨美術協会」**を発足。
1980年(昭和55年):旭可鍛鐵を退職し、画道に専念。**「たらし込み」**を研究。
**「鬼瓦シリーズ」**の制作を開始。
1982年(昭和57年):NHK『あなたの町から30分』等に出演。メディアでも注目される。
1983年(昭和58年):画廊での個展、山梨県立美術館での展示。
1984年(昭和59年): 月刊鐵心水墨画誌上教室の発行を開始する。
1985年(昭和60年):アトリエ**「画鬼庵」**完成。米国墨絵協会との交流が始まる。
1986年(昭和61年):NHK学園水墨画通信講座監修開講。初の渡米、および訪中。
1987年(昭和62年):脳内出血により入院するも、翌年には活動を再開。
国内外での展示・寄進、多数の技法書出版を行い、日本を代表する水墨画家として世界を股にかけ活躍した時代。
1990年(平成2年):東京・有楽町朝日ギャラリーにて個展。
1991年(平成3年):協会会員数が1,200名を超える。
1994年(平成6年):米国墨絵協会審査委員長として渡米。
この頃第二のアトリエ**「画禅庵」**完成
1999年(平成11年):可睡斎へ襖絵を寄進。画集『温故知新』発行
2000年(平成12年):方広寺(待者寮)へ24面の襖絵を寄進。
2002年(平成14年):「心」で内閣総理大臣賞受賞
2004年(平成16年):書籍『楽しい水墨画』淡交社発行。
2005年(平成17年):米国(ワシントン、フロリダ)にて特別講師として指導。
2007年(平成19年):イタリア・フィレンツェにてデモンストレーション。
2008年(平成20年):NHK『美の壺』関連書籍発行。6月15日、65歳で惜しまれつつ死去。
私ははじめから水墨画が大好きで絵を習い出したのではない。多少、他の人と変わったところがあったようで、18歳の時に、ひょんなことから当時、地元に有名な南画家の榛葉淡南先生がいることを知り訪ねた。別に真剣に絵を学びたいという気持ちではなく本当に何気なく、ただ「ぶらっ」と行ったという感じである。私は学生の頃から絵が得意というわけではなく、写生に行けば画用紙の下方5分の1ぐらいのところに山から家から田んぼを描き、残りの5分の4は空を描き、雲をちょこちょこと描いて、よしとしていた。そうすると速く仕上げて後は遊べるからである。そんな要領の良さだけが、取り得であった。それが神様の悪戯か夢遊病者のように南画家の先生の所へ行ってしまったのだ。また、行った日というのは台風の来る前日で、雨こそ降ってはいなかったが風が吹き荒れていた日である。後で先生が話すには「こんな天候の日にわざわざ訪ねてくるとは余程、熱心な若者に違いない」と思ったそうだ。家にあげてもらい世間話から絵の話などをしているうちに、「年を経たらこんなじいさんになれたらいいなぁ」と思うようになった。それには先生と同じことをやるのが一番だ、六十年続ければなんとかなるだろうと思って、はじめた次第である。私の場合、絵は目的ではなく、手段として、先生のようになるには必要、欠くべからざる習い事として受け止めた。それでもその場では先生も自分も絵を教える、絵を習いたいということにはふれなくて、先生が「毎月、日曜日に2回教えている」と言われただけで終わった。次の日曜日から出かけていくと、六、七十歳くらいのじいさんばかりで十八歳の私は場違いな感じがあった。私は皆さんの練習風景を見ていて、「あぁ、こんな具合に習うのか、私もはやく描きたいな」と思いつつ半年も経た頃、先生が「どうだね、習う気になったかねと言われた。私も「もう、教えてもらっているものと思っていました」と言うと、やっと初めてお手本を描いてくれた。はじめのお手本は蘭であった。今でもよく覚えている。次の練習日までに二百枚ぐらい描いて持っていくと、先生があきれて「君、こんなに多く持って来ても見られないから今度から三枚ほど持って来ればよい」とアドバイスしてくれたのを覚えている。先生は七十五歳であった。それからも七年問、南画の先生のところで画の道に励んだが、基本が四君子で水墨の線を練習した。
先生について七年、四君子、山水、花類の基本を一通り教えてもらったところで先生が亡くなられてしまった。その間、先生に教えていただいたことは、今の自分の水墨画の技法の3分の1程度、人生の勉強の100%を学んだつもりだ。
本来、私は百姓の出なので、物事をコツコツやるのが性に合っていて、水墨画に向いているのかも知れないが、水墨画にもいろいろな考え方がある。私の水墨画を始めた動機・考え方などが参考になったらと思っている。
1890年(明治23年)~1971年(昭和46年) 明治~昭和の画家
掛川(西山口村成滝)に生まれる。本名貫次
西照寺(金谷)の木村半雨に学ぶ
画業だけでなく青年教育に心血を注いだ。
前田靄齋とは親戚になる。
山水・富士を得意とした。
掛川市二の丸美術館 郷土の文人画より
榛原郡金谷町(島田市)の人。弘化元年(1844年)に生まれる。
名は龍湫、半雨と号し、金谷西照寺月塘の子である。童名は梅丸。別に海堂、半雨堂、鉄棒、七十五灘生等の別号がある。半香に学ぶ。
明治43年7月28日68歳で没した。
遠州画人伝より
文化元年(1804)~元治元年(1864)
静岡県磐田市見付(旧遠州見付)に生まれ、名を佶、字を吉人、通称を恭三郎といい、初号を盤湖といった。
半香は10才の頃村松以弘に絵の基礎と写生の習慣を学んだ。21才のとき江戸に出て勾田台領について山水を習うが1年で帰郷、
30才で渡辺崋山に師事し江戸麹町に住んだ。40才の頃崋山が入牢、続いて田原に蟄居すると師の災厄を助ける為奔走したが、却って師を自害に追い込んだ。そのことが半香を絵に打ち込ませ、明清画人の絵を基本から学び独自の画境を得た。
崋山十哲の一人である。
掛川市二の丸美術館 郷土の画人展より
